写真論 No.9 表現と理解

絵画、写真、陶芸というあらゆる芸術の共通点のテーマが、個性を表現するするために選ばれた手法。

例えば写真を真似するところから始まり、一歩踏み込み、視点を変えて写真でありながらも、この人にしか撮れない写真を生み出したときに個性を持つことが出来る。

しかし表現するためにも、他者理解を求めたり、芸術的評価と価値を求めてしまい、個性を捨てて、主張を捨てて写真を撮るようになってしまった人も多く存在する。

芸術的な評価や価値を得ることは、経済的には必要な行為である。生き抜くためにはどうしても他者から最終的に金銭を得る必要があるからだ。

否定しないにしても、極論贋作してまで金銭を稼ぐことになるのだから悲しいこともあるものだ。評価を受けないということは、他者から理解されず金銭的な余裕もない状態になることは多い。

親が金を持っていれば生き残ることは可能だが、全ての才がある人達が評価されるのは死後何十年後というのよくある話。評価してくれる人達が、その時代に居なくても数百年後には存在する可能性もある。

今生きているときに支援してくれる人達に感謝しなければいけないこそ、作品を生み出し、ここにいるぞ。作品を見てくれ。と表現し、そして伝えなければいけない。

大きな支援者がいればいいし、小さな支援者が沢山いればいい。しかし支援の先にあるのは、表現であり評価なのである。

今を評価してくれる支援者は特別なのだから、写真であれど芸術全てに評価があれば感謝をしよう。

その反面ではあるけど、ネットで手軽に写真を投稿できる時代になって、支援者ではなく、ファンという形で軽く存在する人たちも増えた。

ネットという膨大な情報の大海原に流した写真に、価値を見出すことは可能なのか?ただSNSでいいねを押されただけの写真に価値があるかは不明だ。

誰でも出来るようになっても、その価値を保ち続けることが出来るクリエイターとして生き残るために必要なことかもしれない。

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