写真論 No.16 抽象性を持たせる。

写真をやっていくなかで個性を出すためにやるべきことはなにかという点に至る。実際、たくさんの写真を撮るだけでは、個性も何もない。確かに基本として設定や現像方法を変更することでカスタマイズすることはできる。しかし、それでは同じ写真を作り出すことも可能ということになり、デジタルという点になれば、尚更設定を複雑する必要があるということだ。

デジタルでいえばプリセットのように簡単に撮影者の設定を真似ることができるデータだって存在するし、フイルムっぽさを出す設定がメーカー側が提供されている。正式な方法であるので悪いことではないが、誰でも出来るということは誰でも真似ができて同じような写真を撮ることができるということが示すのではないか。

つまり写真を撮るということは個性を出すことも考えないといけない。真似されてしまえばオリジナリティは権利という法律で守るしかならず、手間やコストというものが跳ね上がる。それよりも個性というものを独自性が伴う抽象性のレベルを高めたほうがまだ個性を出して、個性を守ることにつながる。

抽象性とはなにか。今まで写真を撮るときに基礎的な話をすればメーカー側の写真テクニックなども被写体があって背景をボカすやり方を推奨している。モデル撮影などが具体的な例として挙げておこう。モデルが誰かわかるようにしてボケで強調するという写真主流といったところで、写真撮影の基礎があるからこそ出来る写真でもある。

しかし写真を撮るにあたっていえば、それが全てというわけでもあない。誰かを撮り、取り続けて結果的に独自の撮影スタイルを確保したときにリアリティというものが写真では優先される。抽象的な写真というのは絵画的になってしまい、なら絵画をやったほうがいいという主張をされてしまうからだ。抽象的なものをカメラで撮ることは悪いことではない、つまり被写体がボケてしまっても、一つの写真として認識され、芸術として認識されてしまえば問題ないのである。

ライカのレンズなどがずっと選ばれ続けるのは個性を出すという点では王道だからこそかもしれない。しかしながらライカ以外のレンズでも被写体にピントを合わせない撮り方は可能で、偶然撮れた写真が誰かの心に刺さることは可能性としてある。

ライカで日常を撮るというのもまた一つの真理ともいえるのは日常の偶然を撮影して抽象性を増すことができるからではないかと考えられる。ライカのボディやレンズで撮ると主観的にピントを合わせているのにも関わらず、ボケがふわっとしているレンズを見受けられ、すぐに撮る静かに撮るという点ではライカのようなカメラは理想的なのである。無理やり撮ることもせず、撮られているということを気づかせないというのは求められる技能となる。

なので抽象的、絵画的な写真を撮りたい人はライカを一度触ってみるといい。僕も実際触ってみて結果、手放したが写真の撮影手法はライカから学んだといってもいい。。僕は成長段階にきているのかもしれない。いろいろなものを撮影してきて見えてきたのは、ちょっとだけで儚いピントがどこにあるかも分からない写真たちなのである。

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