写真論 No.10 消えていくデジタル写真の中で。

僕はひとつだけやっていないことがある。それはデータ管理だ。簡単に言えばフィルム写真にしろ、デジタル写真にしろ、フイルムやSDカード、HDD、SSDなど記録装置に保存したりしていると思う。掘り下げればXやInstagramなどのSNSにもポストしているはずなんだけど。

結構管理はずさん。例えばだけどSIGMAfpを今回買い直したんだけど、新しくデータは0枚からスタートしている。でも過去にSIGMAfpを撮影しているので、ファイルから過去の写真保存ファイルに移動すると同じデータとして認識される(ファイルの名前が一緒だから)。そしたら、普通は別の名前をつけるとか、新SIGMAfpのファイル名を変更してかぶらないように対応すると思う。

僕は、そのまま上書きしていくのである。つまり写真が何枚も消えていく。フイルムに関しては段ボールに入れて押し入れに保存しているのでカビ生えたり、劣化したりするかもしれない。つまり二度とデータ化できないものや金がかかるものが存在する。

結果的に写真は消えていく。嫌な人はいるかもしれない。でも僕は写真が消えていくことに躊躇いがない。写真を撮る行為を楽しんでいるところはあるけど、印刷しているものもある。写真に失敗も無ければ成功もない。自分が納得いく形を結果として得られるかどうかだと思う。

自分がやりたいことの先に写真を撮るという行為が残り、続けているだけに過ぎないし、その結果やりたかったことは何かといえば考えること。自分で考えて自分で行動するという当たり前のことに、意味をどう持たせていくか。ある意味人生を最高に楽しむ方法でもある。

写真を撮って評価されることで自己顕示欲を満たしている写真家は多いし、否定はしないし間違いではない。正しいというわけではなくて、僕としては通過点でしかない。最終的に作品を通じて誰かの人生を変えるものを生み出せたらそれでいい。

芸術作品をみて心が躍ったり、惹きつけられて動けなくなるぐらいの作品を生み出したい。それがファンひとりのためでもいいと思っているからこそ、写真1枚への想いというのは形だけであって、残るのは僕自身の想いや撮影スタイルそのものだと実感している。

作品を生み出すにあたって、ある程度のルールは設けていて、枠にハマればそれでいいと思っている。小さいけれど、誰かの人生を導いてみたいのかもしれない。宗教的な何かににているのかもしれないけど、このへんは不透明な感情である。

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